さんじゅうろうの覚え書き

不治の中二病を患っている中年男『さんじゅうろう』の他愛のない覚え書きです。10年後には立派な黒歴史になっているかもれしない。

【漫画】僕の週刊少年◯◯を振り返る・第1回~少年サンデー編~【全5回予定】

放課後、100円玉を何枚かもって本屋に出かける。お目当ては少年漫画雑誌だ。

どの世代にもあったはずのそんな時代。

私にもありました、少年漫画雑誌読みふける時代が。

そんな私の少年時代の思い出を今回から5回に渡って、書い始めた年代が若い順から書いていこうと思います。

第一回の今回は1975年~1985年まで買い続けていた『週刊少年サンデー』です。

 

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1975年以前

私が実際に少年サンデーを買ったのが74年頃。当時はゲッターロボやがんばれロボコンなど、子供向けの漫画が連載されていた影響で買い始めたかと思う。(当時はコロコロも無かったし)

しかし実際に印象に残ってるのは『おれは直角』(小山ゆう)や『ダメおやじ』(古谷三敏)だった。

おれは直角は時代劇ギャグ漫画で後にアニメ化もされている。ダメおやじは『とにかくイジメられる時代』と『社長になる』時代があるが、たい焼きがきっかけて社長になったエピソードは物凄く印象的だった。当時の自分は『たい焼きの尻尾も残さず食べれば社長になれる』と思い込んでいた。

 

1975年連載開始の印象に残っている漫画

のらガキ (赤塚不二夫)76年まで

一球さん (水島新司)77年まで

のらガキは猫に拾われた孤児の男の子、のらガキが掘っ立て小屋で育ての親の猫と暮らすギャグ漫画。ギャグ漫画なのだが、のらガキの育ての親である母(猫)を慕いつつも人間で無いことに苛立ったり、人間同士の親子を見て心を揺さぶらられたりする姿に切なさを感じた。

一球さんは水島漫画で印象に残っているのだが、どちらかと言うとあまり好きな方では無かった。主人公の高校の名前が『巨人学園』という時点でジャイアンツを想起させるものがあり、生粋の名古屋っ子でドラゴンズ党の自分とは相性が酷く悪かった気がする。

 

1976年連載開始の印象に残ってる漫画

まことちゃん (楳図かずお)81年まで

がんばれ元気 (小山ゆう)81年まで

バイバル (さいとう・たかお)80年まで

まことちゃんを起点にして楳図かずおの存在を知ってしまったために楳図かずおの他作品が恐怖漫画だと知らずに手にして強いトラウマを植え付けられたのは良い思い出(?)である。まことちゃんをソフトにした物が『クレヨンしんちゃん』だと思う。

がんばれ元気とサバイバルに母親がハマったおかげで少年サンデーがとっても買いやすくなった。小遣い面でも教育的な部分でもね。

がんばれ元気は父ちゃん(シャーク堀口)が死んでしまうまでの幼年期、ボクシングを祖父母から反対されて、隠れてやっていた少年期。尊敬する三島コーチが亡くなり、プロボクサーとして活躍する青年期。この3つに分けられるが青年期に少し勢いが落ちた気がする。

これはサバイバルにおいても同様で、島で孤立していた少年サトルが自力で生活していく初期から比べると東京についてからの物語で若干トーンダウンしているような気がする。

しかしこの3作が当時のサンデーを80年まで牽引していったのは間違いないと思う。

 

1977年連載開始の印象に残っている漫画

おやこ刑事(デカ) (画・大島やすいち 原作 林律夫)81年まで

この頃はまことちゃん・がんばれ元気・サバイバルなどが絶好調の印象で新連載に印象が薄かったが、この『おやこ刑事』は印象的だった。大島やすいち先生の絵が見易いという印象。刑事モノで一話完結形式も読みやすかった。ただこの年は少年チャンピオンも買い始めるので、少しだけ印象が落ちた感じがする。この年の少年チャンピオンの勢いは正に破竹で、他誌を凌駕していったので、致し方ないと言えば仕方ないだろう。

 

1978年連載開始の印象に残っている漫画

ヒットエンドラン (あや秀夫)80年まで

うる星やつら   (高梨留美子)87年まで

この年に高橋留美子うる星やつらがスタート。連載当初は正直な話を言うと取っ付きにくい印象だったが、急激に絵が洗練されていってからは看板漫画に成長していく。

当時、まだ小学生だったのでトラジマビキニはちょっと刺激が強かったのかもしれない。

ヒットエンドランは『がんばれ!ぼくらのヒットエンドラン』というタイトルで単発テレビアニメ化されたが、なんで『がんばれ!ぼくらの』とタイトルを付け足したのか当時の自分には謎だった。(今でも分からないが、興味自体無くなった)。

ヒットエンドランは薄味の野球漫画だった印象がある。

 

1979年開始の印象に残っている漫画

ダッシュ勝平(六田登)82年まで

この年も既存の連載陣がしっかりと固めていたので、新連載に印象的なものは少なかった。

その中で79年後半に登場したダッシュ勝平は印象的だった。小さい主人公があらゆる工夫でバスケットボールをする姿は固定概念を打ち破って型に嵌まらいと言う事の楽しさを与えてくれたような気がする。途中、バスケから卓球に変わるなど、バスケ漫画と思いきやスポーツ全般に手を広げていくのは意外だったが、当時卓球をやっていた私にとっては卓球編は楽しく読めた。

 

1980年開始の印象に残っている漫画

プロレススーパースター列伝 (画・原田久二信  原作・梶原一騎)~83年まで

スーパーライダー (石渡治)82年まで

ただいま授業中 (岡崎つぐお)83年まで

 

この年は他にも男大空(画・池上遼一 原作 雁屋哲)があったが、池上先生の絵は私にはちょっと早すぎた。『これは大人の人の漫画だ』というイメージが強い。しかし、今ならわかると思う。この年あたりからそれまでの看板作品が終盤にさしかかり、新しい作品との交代時期が迫ってきていると言う感じでした。実験的な新連載が多かったのか、始まって直ぐに終わる作品も多かった。

そんな中でも上記の作品は2~3年程続いた作品でした。

日本のプロレスが絶頂期を迎えるあたりに投入されたプロレススーパースター列伝は今でこそ読むと『ホンマかいな?』という点はちょくちょく見受けられるが、当時のプロレスラーの素顔を知ったりとプロレスに興味を持つきっかけになった。特にタイガーマスク編はその正体に迫る内容で注目を集めた。個人的に言わせてもらえば私が後年に渡ってリックフレアーのファンなのはこの漫画が原因である。

あと連載後期からいきなりマッドマックス展開になっていったスーパーライダーは子供心に『テコ入れ』という言葉を意識させてくれた。

ただいま授業中は『こんな学校生活が贈りたいなぁ…』という憧れがありました。

この1980年あたりから週刊少年サンデー本誌に加えて月イチ発売の週刊少年サンデー増刊号も購入するようになった。週刊少年サンデーの購入担当が弟になった覚えがある。

 

1981年連載開始の印象に残っている漫画

さよなら三角 (原秀則)84年まで

どっきりドクター (細野不二彦)82年まで

六三四の剣 (村上もとか)85年まで

タッチ (あだち充)86年まで

ふたり鷹 (新谷かおる)85年まで

がんばれ元気、まことちゃんなどの人気漫画終了し、看板漫画はうる星やつらのこの頃、増刊少年サンデーで連載中のさすがの猿飛と並行連載という形で細野不二彦先生がどっきりドクターの連載を開始します。正直なところさすがの猿飛を超えるインパクトは無かったけど、印象に残っています。この作品は16年後にアニメますね。

がんばれ元気が終了しましたが、その流れを継承したような六三四の剣がスタート。主人公の幼少時代からスタートして試合での父の死を乗り越えて成長してくと言うパターンを継承しています。六三四の剣ファミコンソフトにもなっていて、当時スマッシュヒットを飛ばしています。

あと、漫画家になりたいと思っていた少年少女の色んな意味での希望の星、原秀則先生のさよなら三角もこの頃にスタートしています。これは後に島本和彦先生の『アオイホノオ』でネタにされますが、『アハッ!』だけで乗り切った作品と言っても過言では無い。

背景は白く線は若い。お世辞にも上手な漫画とは思えなかったが、何故かキャラが可愛く見えると言う魔法のような作品でした。原秀則先生の今の画風とこの作品の画風を見比べると本当に『何があった?』と言わざる得ない。しかし個人的にはそんな初期の作品のときのほうがよく読んでいいた気がするから皮肉なものである。

そしてとうとうこの時期に、あの『タッチ』が登場します。こちらに関してはもう説明不要で、あだち充先生が画風・作風を変えてきた『みゆき』や『陽当り良好!』からの集大成。

主要キャラである和也の死はファンに大きな衝撃を与えました。

あと、増刊サンデーで『ファントム無頼』、他誌において『エリア88』を連載していた新谷かおる先生の『ふたり鷹』がスタートしていますが、やっぱりこの人は戦闘機だなぁ…と思ってしまいました。

この時期は次なる覇権を狙った作品が多かった一方、短期で連載が終了してしまう作品も多かったです。

 

1982年開始の印象に残っている漫画

Gu-Guガンモ (細野不二彦)85年まで

なんか妖かい? (画・里見桂  原作きむらはじめ)84年まで

はしれ走  (みやたけし)84年まで

火の玉ボーイ (石渡治)85年まで

ラブZ    (画・やまさき拓味/原作・小池一夫)84年まで

82年といえば、それまでひっそりと連載を続けて来たダメおやじが連載を終了します。

連載当初の過激な物は一切なくて、穏やかなうんちくモノとしての終了でした。

そして細野不二彦は最初からアニメ化を念頭に置いたかのようなGu-Guガンモで勝負に出ます。『キャラもので来たらもう最強やんけ…』当時の私はそんな事を思っていました。

あとタイトルがやたら印象的な『なんか妖かい?』、タイトルだけで中身がわかります。

驚いたのは少年ジャンプからみやたけし先生が移籍。しかも月刊ジャンプでは連載を続けながらの移籍。石渡治先生は学園モノを描きはじめています。しかし、ここでのダークホースはやまさき拓味小池一夫先生とのタッグで描かれた『ラブファンタジーもの』である『ラブZ』。今や競馬漫画というイメージが強いやまさき先生とかの大御所、小池一夫先生ですよ。挑戦し過ぎのラブファンタジー『ラブZ』は好きな女の子に想いを伝えることが遂げられずに死んでしまった主人公が幽霊となって想いを伝えるために悪戦苦闘する物語です。

今ならば、このような話はちょくちょくあるような気がしますが、この当時は新鮮でした。このジャンルの先駆け的な作品。

そしてサンデーは盤石の体制を整えていく

 

1983年開始の印象に残っている漫画

炎の転校生 (島本和彦)85年まで

盤石の体制となった少年サンデーはこの年、本誌で最高部数となる228万部を記録。

連載作品は好調であったものの、人気作が終わって次の作品に挑む作者には既存作品の高いハードルが立ちはだかり、それを超えることが難しい状況であった。

六田登先生が『その名もあがろう』『陽気なカモメ』などを発表、岡崎つぐお先生が『春美120%』などを発表しているが、反応はイマイチだったような気がする。

そんな盤石な少年サンデーに挑む1人の新人漫画家がいた。それが島本和彦先生である。

島本先生の『炎の転校生』の連載がスタート。強引なギャクと暑苦しいほどの勢いで人気漫画になって行ったのは、ここで語るよりも島本先生の連載中の漫画『アオイホノオ』を一読すると良いと思う。

他には池上遼一先生がまさかのSFに挑戦した『星雲児』がある、サブタイトルが『聖・少年戦士伝』その作品のタイトルのインパクトが強すぎて内容を殆ど覚えていない。

この当時、私のウエイトは週刊少年サンデーより増刊少年サンデーだった気がする。

『とってもひじかた君』が好きでした。

 

1984年開始の印象に残っている漫画

ブリサードプリンセス (鈴宮和由)84年まで

ふぁいてぃんぐSWEEPER  (中津賢也)84年まで

スプリンター   (小山ゆう)87年まで

この頃に登場した作品もやはり既存の連載陣の厚い壁を感じる事となる。

増刊サンデーから週刊の方に乗り込んできた鈴宮和由先生や中津賢也先生も短期連載で終了。

それでもスプリンターは最初の方は結構読んでいたような気がする。

 

1985年開始の印象に残っている漫画 

TO-Y (上條淳士)87年まで

究極超人あ~る (ゆうきまさみ)87年まで

陸軍中野予備校 (安永航一郎)86年まで

 

この年の途中でサンデーを買って読むという習慣はなくなりつつあった。

TO-Yなどは途中から単行本で集めだしていたので、サンデーを買って読むと言うより他の方法で読むようになった記憶がある。

 

その後

その後の連載作のイメージが薄くなる。理由はいくつかある。

・少年誌から青年誌へのシフトがあった。

・人生で最初で最後のモテ期が来たので、それどこじゃなかった。

そのあたりが大きな原因だと思う。

但し、少年サンデーを読まなくなったかと言うとそれはちょっと違う。

喫茶店などで定期的に読み漁っていたので、その中から好きな漫画をチョイスして単行本を購入していた……という感じ変わっていった。

それも90年代くらいまでとなるのか、その後はアニメの後追いで単行本を買ったりしていた。子供の頃よりお金は自由になったのに、情報量は明らかに減っていったという感じである。

 

あとがき

さて、こんな感じで私のサンデー時代を書かせてもらいましたが、他誌においても同様の思い出が存在します。次回は少年チャンピオンにもあったんだぞ黄金期、奇跡の70年代後半から80年台中盤まで』実はお気に入りの漫画が多かったのが『少年チャンピオン』このチャンピオンの奇跡を思い出とともに追いかけたいと思います。